【教区主教メッセージ】『礼拝指針』(2021年11月9日版) 詳細

主日のみ言葉と説教 2021年9月5日 聖霊降臨後第15主日(特定18)

今週の特祷

主よ、どうか主の民に世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、清い心と思いをもって、唯一の神に従うことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

聖餐式聖書日課

旧約聖書 イザヤ書35:4-7a
詩編 146:5-10 または 146
使徒書 ヤコブ書1:17-27
福音書 マルコによる福音書7:31-37

説教(教区主教 イグナシオ入江 修 主教)

聖霊降臨後第15主日(特定18)[B年](山手)

2021.9.5

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。アーメン

1)東京や神奈川など首都圏では、ここ2週間ほど新規の感染者の数は減少傾向にあり、全国的にもピーク時の7割程度になってきています。しかし、重症者は未だに減らず、病床の逼迫も改善されておらず、入院治療が必要な状態の人たちが自宅療養になっている実態に大きな改善はみられていません。油断することなく、今後も引き続き、一つ一つの予防策を確実に実施して参りましょう。

2)さて、8月の終わり頃から急に涼しくなり、今日は9月最初の主日である聖霊降臨後第15主日を迎えています。今日の特祷と聖書日課から私たちに与えられている福音(嬉しい知らせ)は、「主のいやしのみ業は、すべての人に救いの道が拓かれていることを示す」ということです。

今日の福音書は、聖マルコの福音書第7章31節以下に記されている、主イエスさまが、耳が聞こえず舌の回らない人を癒された話です。当時、そのような障がいや病は神さまのみ心に背いた罪の結果と見なされ、憐れみの対象ではなく、むしろさげすみの対象とされていました。

しかし、イエスさまは弟子たちを連れて方々を巡り歩き、そのような人たちを進んで尋ね出して手を置き癒されました。それは、今日の旧約聖書であるイザヤ書第36章4節以下に
「神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。」
とあるとおりです。

使徒書のヤコブの手紙第1章17節以下では「みなしごや、やもめが困っているときに、世話を」することによって「御言葉を行う人に」なる、すなわち、弱い人、小さくされた人に憐れみの心をもってその人たちを助け支えるということが述べられています。それがすなわち、「世の汚れに染まらないように自分を守ること」であり、「父である神の御前に清く汚れのない信心」であると述べられており、特祷において「清い心と思いをもって唯一の神に従う」といわれていることです。

旧約聖書のイザヤ書第36章に記されている救いの預言は、み心に背いた罪の結果と見なされていた病や障がいを負っている人をイエスさまが癒されることを指しています。つまり、イエスさまがそのような人たちを癒されたことによりその罪が赦されたことが、病や障がいを罪によるものだと考えていた人たちに示されたのです。

しかし、聖ヨハネの福音書第9章にある「生まれつきの盲人」を主イエスさまが癒された箇所を見ますと、そのような前提で、
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
と問い掛けた弟子たちに対して、主は、
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
とお答えになっています。そうであれば、これは、耳が聞こえず口が利けない人の罪が赦されるためというよりも、むしろ、そのような人たちがもともと他の人たちよりも罪深かったというのではなく、そのような人たちを罪人と決めつけてきた人たちにこそ自らの罪の自覚と悔い改めを迫るためのものといえるのではないでしょうか。

主イエスさまが示された救いとは、聖ヨハネの福音書第9章で主が弟子たちに言われたように、病や障がいのために罪人と見なされていた人たちにおいて神さまのみ業・・が現わされることにより、むしろ、そのような人たちを罪に定めていた人たち、すなわち、自らには罪はないとしていた人たちに対して、その人たちの目を自らの罪に向けさせ、悔い改めを迫る、というものです。

そして、自らの罪を悔い改める人に対しては、そのすべての人にご自分の十字架の苦しみと死をもって罪の赦しを与えること、それが主イエスさまによる救いなのです。それは、罪のために死ぬべき者に、主のご復活による命が与えられるという意味で、罪の赦しなのです。

3)今日は、この後、堅信式が執り行われ、志願者には聖霊の7つの恵みが賜物として神さまから与えられます。それは、知恵と理解、深慮と勇気、そして神を知る恵み、更には神さまを愛する心と神さまを敬う心です。そして、堅信式を受けた後、主イエスさまの体と血である聖別されたパンとぶどう酒を初めて拝領するのです。

こうして、罪が赦され罪によって死ぬべき私たちが命を与えられるために、私たちは十字架に架かられて死に復活された主イエスさまを受け、主イエスさまの復活の命を生きる者とされるのです。しかし、主の体と血を受ける前に私たちは、自らを省み、神さまのみ前に罪を告白してその罪を悔い改め、神さまの赦しを受けなくてはなりません。

私たちの救いとは、罪のために死ぬべき者が命に生かされるということであり、そのためには、主イエスさまの十字架による罪の赦しは欠かすことができないものです。つまり、私たちにとっての救いとは罪の赦しなのであって、そこで初めて主イエスさまの体と血を受けることが許され、私たちはイエスさまを生きる者、すなわちイエスさまの命に生かされる者とされるのです。

その意味で、主の体と血を拝領することができるのは、私たちが罪を赦されている“しるし”です。コリントの信徒への手紙①第11章27節以下で聖パウロが述べているように、
「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すこと」
になるのであり、
「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべき」
なのです。

主イエス・キリストによる救いとは、罪を悔い改める者にその赦しが与えられ、それによって私たちが、主が十字架で死にそして甦られた命を賜り、その命に生かされるということなのです。

それが、主のご復活を記念する主日(日曜日)ごとに、また主イエスさまのご生涯を記念する聖なる祝日を迎える度に、主が命じられたように、悔い改めて罪の赦しを受け、主イエス・キリストの体と血に陪かってその命を生きる者、主の命に生かされる者とされるこの聖餐式を、私たちが主の十字架の贖いの記念として繰り返しささげていく理由なのです。

キリストの命を生きるとは、特祷で祈ったように、清い心と思い、すなわち、弱い人、小さくされた人に憐れみの心を持ち、キリストのみ業に倣ってそのみ跡を忠実に辿り、神さまのみ言葉を行うことです。今日、堅信の恵みに与る志願者と共に、キリストが先立って進まれたこの命の道を、共に歩み続けていきましょう。


説教原稿のPDFファイルはこちらです。

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