主日のみ言葉と説教(2021年5月2日・復活節第5主日)

祈りと み言葉:2021年05月2日

特祷

全能の神よ、あなたをまことに知ることは、永遠の命にいたる道です。どうかわたしたちが、み子イエス・キリストは道であり、真理であり、命であることを深く知ってみ跡に従い、永遠の命に至る道を絶えず進むことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

聖書日課

使徒言行録 8:26-40
詩編 68:1-8または 68:1-11
使徒書 ヨハネの手紙Ⅰ 3:(14-17),18-24
福音書 ヨハネによる福音書 14:15-21

説教(教区主教 イグナシオ入江 修 主教)

復活節第5主日[B年](秦野)

2021.5.2

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。

アーメン

1)4月25日より5月11日までの間、東京、大阪、京都、兵庫の1都3県に緊急事態宣言が発令され、横浜教区でも、まん延防止等重点措置が適用された神奈川県と千葉県の一部の教会では、現在、主日礼拝の公開を再び休止したり、あるいは出席者数に制限を設けたりしているところです。

しかしそれでも、昨年、叶わなかった、聖週とご復活日、そしてその後の復活節に、主日礼拝をこうして皆さんと共に一堂に会してささげられることは、何よりの喜びです。ご復活の喜びの内にある復活節にあって、新型コロナの終息、更にはウイルス感染の拡大によりさまざまな影響を受け、殊に困難に至っている多くの人々の上に、主のご復活による慰めと励まし、そして喜びと希望が与えられることを祈りたいと思います。

2)さて、私たちは今日、5月に入り最初の主日、復活節第5主日を迎えています。復活節も半ばを過ぎ、今日の聖書日課は主のご昇天、そして聖霊の降臨を想起させる内容となり、私たちに与えられている福音(嬉しい知らせ)は、聖霊を遣わす約束が語られています。

私たちは、先ほど、今日の特祷で、
「全能の神よ、あなたをまことに知ることは、永遠の命に至る道です。」
と唱えましたが、続いて、
「み子イエス・キリストは道であり、真理であり、命であることを深く知ってみ跡に従い、永遠の命に至る道を絶えず進むことができますように」
と願い求めました。つまり、父なる神を知ることはみ子を深く知ることであり、それが永遠の命に至る道である、ということなのです。

父なる神を現わされたのは、唯一、み子においてで、み子を通してのみ、私たちは父なる神を知ることができるのです。ところが、人間は、常に自分にとって都合の良い神を造り出そうとする誘惑にさらされています。実際、シナイ山の麓でモーセを待つ間に、イスラエルの民はアロンに向かって自分たちをエジプトから導き出した神を造るように求め、アロンは金の子牛の像を造ってしまいます。

そのシナイ山で神がモーセを通してご自分の民にお与えになった十戒の初めの二つには、
「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
そして、
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」
とあります。

それでもなお、人間は、自分にとって都合のよい偶像を有形無形に造り出して罪を繰り返してきました。聖パウロもフィリピの信徒への手紙第3章19節で、
「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」
と述べ、己の腹、つまり自分自身を神とする者たちのことを指摘しています。

3)ですから、もし私たちが父なる神をほんとうに知り、そして永遠の命に至る道を辿ろうとするのであれば、自らの力だけでそれを行うことは困難ですし、間違った道に進む可能性を大いに含んでいることを知らなくてはなりません。

そして、正しい道であると思い込んで、実は、間違った道、すなわち、命に至る道を辿るのではなく死に至る道に迷い込んでしまっていることがあるのではないでしょうか。

今日の福音書は聖ヨハネの福音書第14章15節以下で、この個所は、受難を前に主が弟子たちになさった訣別の説教の一部です。その16節以下でこのように言われています。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいてくださる。この方は、真理の霊である。」と。

弁護者とは、裁判において「傍らに呼ばれた者」、すなわち、助け主慰める者解釈をする者といった意味があるとされているのですが、ヨハネ福音書においては「真理の霊」といわれています。それは、すなわち、真理を現す、あるいは真理を知らせる霊ということです。

そして主は続けて、
「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。」(14:17)
と言われます。

そのことが実現するのは、主が、
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることがあなたがたに分かる。」(14:20)
と言われているように、ご復活の主のご昇天を経て聖霊の降臨に至ってからのことです。

そして、聖霊において主が弟子たちと共におられることにより、弟子たちは、特祷で私たちが祈ったように、道であり、真理であり、命である方――主の”み跡”に従い、ご復活の主を世に証して永遠の命に至る道を、殉教をも厭わず最後まで歩み通していきました。

最初に読まれた使徒言行録第8章26節以下では、ステファノと共に任ぜられた7人の執事の一人フィリポが、聖霊を通して彼に語られる主のみ声に聞き従い、異邦人であるエチオピア人の宦官を導き、洗礼を授けたところが読まれていました。

4)さて、それでは、私たちが御父をまことに知るとは、どういうことでしょうか。それは、主の霊、また真理の霊といわれる聖霊の働きによって初めて叶うことです。聖霊を通してご復活の主が私たちに語られ、私たちを導かれることによって、そこで初めて私たちは、み子を遣わされ、み子においてご自身を現された御父をまことに知ることができるのです。

そして、知るとは、単に知識として頭で知る、ということにとどまらず、その方を受け容れ、その教えに聞き従う生き方をする、少なくとも自らの意思をもってそのように努め励む、という意味で、私たちの背中を押して前に進むようにと促しているのです。

そのような生き方をすべく努め励むことによって、私たちは御父をまことに知ることができるのであって、特祷にありましたように、そこで私たちは永遠の命に至る道を絶えず進んでゆくのです。

そして、使徒書のヨハネの手紙①に記されていたように、主イエスさまのみ跡を辿ることが、主を愛して主が与えられた「互いに愛し合う」という神の掟を守ることになるのであって、
「神の掟を守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」とあったように、その人は神との交わりの内、つまり神の命の内にあって、「命に至る道」を歩み続けてゆくのです。

傍らにとどまり、助け、慰め、導いてくださる真理の霊、聖霊を受け、その霊を通して私たちを命へと導いてくださる主の教えに忠実に聞き従うことによって、私たちは、父なる神をまことに知り、永遠の命に至る道を、主のご復活の命の喜びを宣べ伝えつつ、絶えずこれからもごいっしょに辿って参りたいものです。


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