『横浜教区報』2021年10月号-1面より

教区報:2021年10月1日

巻頭言

聖霊降臨後第22主日(特定25)

特祷

特定25
全能の神よ、み子イエス・キリストは、小さい者のために行うことはわたしのために行うことになる、と教えられました。すべての人のしもべとなり、わたしたちのためにいのちを捨て、死なれたみ子のように、わたしたちにも隣り人の僕となる心をお与えください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

旧約聖書

イザヤ書 59:9-19
9それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。10盲人のように壁を手探りし、目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき、死人のように暗闇に包まれる。11わたしたちは皆、熊のようにうなり、鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った。12御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎知っている。13主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。14こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立った。15まことは広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。16主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。17主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。18主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。19西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。

詩編

13:1-6
1主よ、あなたはいつまでわたしをお忘れになるのですか∥ とこしえにみ顔を隠されるのですか
2 いつまでわたしは悩み苦しみ、心に痛手を受け∥ いつまで敵はかち誇るのですか
3 わたしの神、主よ、顧みてわたしにこたえ∥ 死の眠りに就かないように、目に光を与えてください
4「勝利はわたしのもの」と敵に言わせず∥ わたしが倒れて敵が喜ばないようにしてください
5あなたの慈しみに寄り頼み∥  わたしは心からあなたの救いを喜ぶ
6 主をたたえて歌おう∥ 神は豊かに恵みを注がれた

使徒書

ヘブライ人への手紙 5:12-6:2,9-12
12実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。13乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。14固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。6・1-2だからわたしたちは、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。9しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。10神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。11わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。12あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

福音書

マルコによる福音書 10:46-52
46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

目が見えるようになりたいのです

司祭サムエル北澤 洋

 イエス様がエリコの町を出て行こうとされた時、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。当時、目が見えないことは、自力で働くことができないことを意味しました。彼が生きるためにできることは、道端に座り、道行く人々に声を掛け、施しを受けることだけだったでしょう。彼のそれまでの人生は、おそらく、苦しみのうちにあったのではないでしょうか。

 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。彼は、人々のうわさから、ナザレのイエスという方がなさってきたことを知っていたのでしょう。目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにする方。弱い者や小さい者のために奇跡を行われる方。その方が、今、自分のそばを通り過ぎようとしている。彼は、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。

 イエス様は立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。人々が彼を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言うと、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ます。彼にとってその上着は、おそらくは唯一の財産だったことでしょう。それをかなぐり捨て、目が見えないために方向も定まらない中、彼は必死になってイエス様のもとへと向かうのです。今まで誰も、私のことなどまともに相手にしてくれなかった。道端で憐れみを請う私を、まるで存在しないかのように扱ってきた。しかし、この方は違う。この方は、私を心に留めてくださった。私の叫びに応えてくださった。そのような喜びと感謝の気持ちが、彼を包み込んだことでしょう。

 イエス様は彼に、「何をしてほしいのか」と問いかけます。すると彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。この答えは、彼の苦しみのただ中から発せられた叫びです。

 イエス様は、彼に言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。彼はすぐ見えるようになり、なお進まれるイエス様に従って行きました。

 イエス様は、彼の願いを聞き入れ、彼の目を見えるようにされました。なぜでしょうか。それは、叫ぶ彼のうちに信仰を認めたからに違いありません。彼は、「この方なら、私を救ってくださるに違いない」という必死の思いをもって、すべてをかなぐり捨ててイエス様を求めました。その思いこそ、信仰と呼ぶにふさわしいものです。

 彼は、エルサレムへの道を進まれるイエス様に従い、ともにその道を歩んでいきます。その道は、十字架へと続く道です。彼はその後、おそらくは十字架の出来事を経て、復活されたイエス様にも出会ったのではないでしょうか。そして、永遠の命へと結び合わされたことでしょう。

 私たちが彼のように、神様に必死に祈り求める時、神様はこの祈りに応え、主イエス・キリストを通して、私たちに救いをもたらしてくださいます。その救いとは、私たちの思いを越えた救い、すなわち、私たちが永遠の命へと結び合わされ、神様と一つとなる、そのような救いです。

 救いに繋がる十字架への道を、イエス様に従い、喜びと感謝の気持ちをもって、ともに行きましょう。(鎌倉聖ミカエル教会牧師)


 

欅の坂みち

+主教 イグナシオ

 八月に下の娘が二人目を出産して、上の子を連れて里帰りして来ました。生まれたばかりの幼子は、抱っこしている相手を信頼しきってすべてを委ね、すやすやと眠っています。

 生まれたての子どもは起きている時間は少なく、言葉も何もしゃべりませんし、意思の疎通は泣くか眠っているか、です。

 しかし、そこまで徹底して信頼されてしまいますと、こちらとしては何とかその期待に応えたいと自ずと心が動かされます。お腹が空いたのか、眠いのか、おむつが汚れているのか、少しでも泣き声が聞こえれば、今度はどうしたのか、あれこれと想像のアンテナを目いっぱい広げて思いを巡らすことになります。

 まさに何もできない幼子なのですが、そのすべてを委ね、信頼し切っている姿が周りの人たちを動かしていきます。

 しかも、周りは渋々ではなく、むしろ、どうしたら喜ぶだろうか、何が必要だろうかと自ら進んであれこれと考えるようになるのです。

 突然、生活の中心に飛び込んできた幼子ですが、今、我が家はこの子を中心に回っています。どんなに忙しくても、まず彼女のことを皆が考えます。

 まったく何もできない幼子が、周りの大人も子どもも皆を動かしているのです。しかも、皆、喜んで幼子のために動くのです。そして、だれも文句を言う人はいません。この子の喜びが皆の喜びになっているからです。

 この信頼が平和を作り出しています。自分中心ではなく、常に相手に寄り添い、思いを巡らしていくのです。

 もし私たちの間でそうであるとすれば、まして神さまは、すべてを信頼して身を委ねる者を顧みてくださらないことがあるでしょうか。愛する独り子をお遣わしになった方は、どこまでも私たちに寄り添い続けてくださっています。


 

※聖書本文は以下より引用しました。
聖書  新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988