『横浜教区報』2021年8月号-1面より

巻頭言

聖霊降臨後第13主日(特定16)

特祷

特定16

旧約聖書

ヨシュア記 24:1-2a,14-25

詩編

34:15-22

使徒書

エフェソの信徒への手紙5:21-33

福音書

ヨハネによる福音書6:60-69

「信じ、知っています」

司祭サムエル小林祐二

 今年の8月の主日は5回ありますが、そのうち1~4番目の主日(特定13~16)の福音書には、ヨハネによる福音書の6章24-69節が配分されています。6章1-15節でガリラヤ湖の「向こう岸」に渡り五千人を養われたイエス様は、「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれ」(15節)、その後弟子たちとともに「向こう岸」カファルナウムに戻られます。群衆も小舟に乗って後を追いますが、イエス様は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と、群衆の行動理由を明言されます。しかし群衆はなお「見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)と、物質的な根拠だけにしか目が向かず、イエス様が仰るように「わたしを見ているのに、信じない」(36節)のです。さらに「これはヨセフの息子のイエスではないか」(42節)と、悟ろうとする気配はありません。

 特定16の6章60-69節は、これらの締めくくりとも言える個所で、多くの弟子たちが「実にひどい話だ」とつぶやき始め、ついに「もはやイエスと共に歩まなくなった」と伝えています。イエス様は残った使徒たち十二人に「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ね、シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答え、イエス様のもとに留まりました。

 離れ去った多くの弟子たちと使徒たちとでは何が異なったのでしょう。イエス様と過ごした時間の長さだけでしょうか。

 イエス様と群衆との決定的なずれは、「者」と「物」との捉え違いだと言えるのではないでしょうか。群衆の求めはパンという「物」に終始しますが、イエス様が差し出されるのはご自身そのものであり、ペトロの言葉にあるようにイエス様が「永遠の命の言葉」「神の聖者」であることに気づくよう、語っておられたのです。

 自分の肉を与えることは、肉体の危険を意味します。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と仰るイエス様のみ言葉には、身の危険をいとわないばかりか、それを裂いてお与えくださるという熱いみ心が込められているのです。それはわたしたちの罪の生贄としてご自身をささげられた十字架において完全に現され、また渡される夜にお立てになった聖餐のうちにも秘められています。聖餐はパンとぶどう酒という「物」ではなく、ご自身を裂いてお与えになるほどにわたしたちを愛してくださるイエス様そのものだということを思い起こしたいものです。

 この原稿が皆さまの元に届く頃、コロナ禍が収束に向かい、諸教会の聖餐式が公開されていることを切に願います。そして飢え渇くわたしたちが、イエス様から離れず、永遠の命の糧を心で悟り、み心によって満たされ、潤されますように。

(清里聖アンデレ教会牧師)


欅の坂みち

+主教 イグナシオ

 相手の話を集中して聞いた時に、後から疲労感を覚えることがあります。

 それは、相手の語る言葉だけでなく、声のトーンや表情、そしてしぐさなどから、その背後にあるその人の訴えを漏らさず受け止めようとしているからなのではないでしょうか。

 言葉一つにしても、その背後にあるその人の思いを汲み取ろうとしますと、聞く側は、その何倍もの思いを巡らしながら聞きます。手紙でいえば、行間を読むということです。

 今、このコロナ禍にあっては、直接、人に会って話したり食事をしたりすることが制限されていますから、いっしょに教会に集まって礼拝をささげた後も、いろいろな人と言葉を交わすこともなかなかできません。

 ズームを使った会議や研修会が行われるようになり、少しずつ慣れては来ましたが、そこでは、参加者同士が言葉を交わすことはなかなか難しく、直接会った時と同じではありません。

 そうした中で今、改めて思うのですが、人と人とのコミュニケーションは、お互いを思いやることによって深められていくということです。
相手の思いを「こうかな、ああかな」と想像しながら思いやって、相手の訴えを受け止めていきます。

 それは、言葉にならない相手の思いを受け止めるということであり、そこにいる相手の心に自分自身の思いを傾けて聞くということです。自分のところに届けられる情報を受け身でただ待つのではなく、五感を駆使して積極的に相手の思いに聞き入っていくということです。

 こうしてお互いに相手を思いやっていく時、たとえ今のような状況にあっても、いえ、このような時であるからこそ、より強くそのことを意識しつつ、私たちはお互いにその交わりを更に深め合っていくことに努めて参りたいと思います。


※聖書本文は以下より引用しました。
聖書  新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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