『横浜教区報』2021年9月号-1面より

巻頭言

聖霊降臨後第16主日(特定19)

特祷

特定19
神よ、あなたに寄らなければわたしたちはみ心にかなうことができません。どうか何事をするにも、聖霊によってわたしたちの心を治め、導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

旧約聖書

イザヤ書 50:4-9
4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
8わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか
われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか
わたしに向かって来るがよい。
9見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。
見よ、彼らはすべて衣のように朽ち
しみに食い尽くされるであろう。

詩編

116:1-9または116
1 わたしは神を愛する∥ 主はわたしの声、わたしの願いを聞き
2 日々、祈り求めるわたしに∥ 耳を傾けてくださった
3 死の縄目とよみの苦しみが迫り∥ 悩みと悲しみの中にあったとき
4 わたしは主の名を求めて叫んだ∥ 「主よ、わたしを助けてください」
5 主は恵みと慈しみに満ち∥ わたしたちの神は憐れみ深い
6 主は素朴な人の支え∥ わたしが衰えたとき救ってくださった
7 わたしの魂よ、平安に憩え∥ 主は恵みを注いでくださった
8 神はわたしを死から救って涙をぬぐい∥ 足をつまずきから守られた
9 わたしは神のみ前を歩む∥ 神に生きる人びとの中で
10 「わたしは大いに悩んだ」と言ったときも∥ わたしは神に信頼した
11 「人を信じることができない」と∥ 恐れうろたえて言ったときも
12 主が与えてくださったすべての恵みに∥ わたしはどのようにこたえようか
13 救いの杯を献げ∥ 主のみ名を呼び求めよう
14 わたしはすべての民の前で∥ 主に立てた誓いを果たそう
15 神を敬う人の死は∥ 主の目に尊い
16 主よ、わたしはあなたの僕∥ わたしはあなたに仕え、あなたはわたしを救われる
17 わたしは感謝のいけにえを献げ∥ 主のみ名を呼び求めよう
18 わたしはすべての民の前で∥ 主に立てた誓いを果たそう
19 エルサレムよ、お前の中で∥ 主の家の中庭で、ハレルヤ

使徒書

ヤコブの手紙 2:1-5,8-10,14-18
 1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

 5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。10律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。

 14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 18しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

福音書

マルコによる福音書 8:27-38
 27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を負って、私に従いなさい。」

司祭ラファエル宮﨑 仁

 マルコによる福音書の1章から今日の箇所までを改めて読んでみますと、イエス様は、神の福音を宣べ伝え、各地で悪霊に苦しむ人々から悪霊を追放し、病に苦しむ人々を癒されました。教えを語られ、大勢の人々に食べ物を与えることや、湖上を歩くことや、風や波をしずめるなどの奇跡を行われました。

 そのような歩みの後にイエス様は弟子たちに人々がご自分のことを何者だと言っているかと問われ、更に弟子たちにご自分が何者だと問われました。ペトロは、イエス様はメシアであると告白しました。

 メシアとは救い主であり、私たちの罪のために死んで葬られ3日目に復活した神の子イエス様のことです。

 イエス様と共に歩んだ弟子たちは、イエス様のなされた奇跡をずっと目の当たりにしてきましたが、イエス様が神様と同じようなご存在であることを真に分かることはできていませんでした。

 告白した者はイエス様につきしたがっていくものですが、ペトロをはじめ弟子たちはそうではありませんでした。

 イエス様が、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され三日後に復活することが神様の救いのご計画によって定められていることであり必ずそのようになると仰られても、ペトロは受け入れられず、拒絶してしまいました。

 ペトロは、神様のことを一番大切に思っているようでいて実際にはそうは思ってはいない、神様よりも人間のことの方を強く思っており信仰から離れてしまっていました。

 そんなペトロをはじめ弟子たちをイエス様は叱った後、弟子たちと群衆に語られました。

 イエス様の後に従って歩いていくということは、十字架の死に向かうイエス様の道を自分も同じように死んでいく覚悟をもって歩いていくということです。イエス様につき従うには、自分自身を捨てなくてはなりません。捨てることは徹底的な自己否定をするということです。自分自身の思いを捨て空っぽになり、自分の中を神の子であり救い主であるイエス様への信頼ゆえの服従のみとなることです。

 覚悟がなく自己否定をしない者にはイエス様を伝える福音伝道も宣教も何もできないですし語ることもできません。

 イエス様は、私と私の言葉を恥じる者は、再臨の際に、その者を恥じると仰います。

 恥じるとは、自分が劣っていることを意識して気がひけることですので、イエス様に自分の全存在を委ねたはずなのに、その御方を、この世や世の人に対して恥じることは覚悟ができていないということです。覚悟と確信をもってイエス様を証ししていかなければならないのです。

 弟子たちに向けられた言葉は、当時の弟子たちだけにイエス様が語られただけでなく、福音書を拠り所とした教会共同体の信徒たちに向けられたものであり、その後の時代の福音書を読み聞くすべての洗礼を受けた者たちに向けられた言葉です。

 あなたや私にイエス様が仰ってくださった言葉であることを改めて覚え、イエス様につき従っていくことに心を寄せたいと思います。

(逗子聖ペテロ教会牧師)


欅の坂みち

+主教 イグナシオ

 今年は梅雨明け早々に真夏日となり、ぎらぎらとした陽射しが毎日、照り付けています。

 主教館の周りの花壇には、今はマリーゴールドなど夏の草花が植えられていますが、小さな苗はこの陽射しと暑さのせいで花も葉もすぐにしおれてしまいます。

 見かねて水をやると、その小さな苗たちはしばらくすると元気を取り戻し、花も葉も生き返ります。水をやることに対してちゃんと答えてくれているようで、こちらも嬉しくなります。そして、暑さでしおれかけている花たちを見ると、何とかしてあげたいという思いになり、却ってこちらが励まされています。

 当然のことですが、植物は植えられたところから自由に動くことができませんので、花の苗は陽射しが照り付けてどんなに暑くても、そこを逃げ出して日陰に移ることはできません。陽射しが照り続ければ水分不足に陥り、ついには枯れてしまいます。水やりをするのは、苗たちにしてみれば、植えた人間の責任であり、当たり前のことといえるのかも知れません。

 苗たちはただ黙々と水がそそがれるのを待っているだけです。そして、水が灌がれると、しおれていた花も葉もいつしか元気を取り戻して答えてくれています。

 それは単に水を灌ぐだけのことなのではなく、そこには水を吸い上げてまた元気になってほしいという願いが込められてこそ、苗たちもそれに答えてくれているように思います。

 命を育て養うということは、すべての命あるものに対して、お互いにこのような相手を慈しむ思いのやり取りがあってこそ、生き生きとした関係が築かれるのではないでしょうか。

 なお続くコロナ禍にあって、神さまと私たち、そして私たちのお互いの関わり・繋がりも、常にこのようにありたいと思います。


※聖書本文は以下より引用しました。
聖書  新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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