『横浜教区報』2021年9月号-1面より

巻頭言

聖霊降臨後第16主日(特定19)

特祷

特定19

旧約聖書

イザヤ書 50:4-9

詩編

116:1-9または116

使徒書

ヤコブの手紙 2:1-5,8-10,14-18

福音書

マルコによる福音書 8:27-38

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を負って、私に従いなさい。」

司祭ラファエル宮﨑 仁

 マルコによる福音書の1章から今日の箇所までを改めて読んでみますと、イエス様は、神の福音を宣べ伝え、各地で悪霊に苦しむ人々から悪霊を追放し、病に苦しむ人々を癒されました。教えを語られ、大勢の人々に食べ物を与えることや、湖上を歩くことや、風や波をしずめるなどの奇跡を行われました。

 そのような歩みの後にイエス様は弟子たちに人々がご自分のことを何者だと言っているかと問われ、更に弟子たちにご自分が何者だと問われました。ペトロは、イエス様はメシアであると告白しました。

 メシアとは救い主であり、私たちの罪のために死んで葬られ3日目に復活した神の子イエス様のことです。

 イエス様と共に歩んだ弟子たちは、イエス様のなされた奇跡をずっと目の当たりにしてきましたが、イエス様が神様と同じようなご存在であることを真に分かることはできていませんでした。

 告白した者はイエス様につきしたがっていくものですが、ペトロをはじめ弟子たちはそうではありませんでした。

 イエス様が、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され三日後に復活することが神様の救いのご計画によって定められていることであり必ずそのようになると仰られても、ペトロは受け入れられず、拒絶してしまいました。

 ペトロは、神様のことを一番大切に思っているようでいて実際にはそうは思ってはいない、神様よりも人間のことの方を強く思っており信仰から離れてしまっていました。

 そんなペトロをはじめ弟子たちをイエス様は叱った後、弟子たちと群衆に語られました。

 イエス様の後に従って歩いていくということは、十字架の死に向かうイエス様の道を自分も同じように死んでいく覚悟をもって歩いていくということです。イエス様につき従うには、自分自身を捨てなくてはなりません。捨てることは徹底的な自己否定をするということです。自分自身の思いを捨て空っぽになり、自分の中を神の子であり救い主であるイエス様への信頼ゆえの服従のみとなることです。

 覚悟がなく自己否定をしない者にはイエス様を伝える福音伝道も宣教も何もできないですし語ることもできません。

 イエス様は、私と私の言葉を恥じる者は、再臨の際に、その者を恥じると仰います。

 恥じるとは、自分が劣っていることを意識して気がひけることですので、イエス様に自分の全存在を委ねたはずなのに、その御方を、この世や世の人に対して恥じることは覚悟ができていないということです。覚悟と確信をもってイエス様を証ししていかなければならないのです。

 弟子たちに向けられた言葉は、当時の弟子たちだけにイエス様が語られただけでなく、福音書を拠り所とした教会共同体の信徒たちに向けられたものであり、その後の時代の福音書を読み聞くすべての洗礼を受けた者たちに向けられた言葉です。

 あなたや私にイエス様が仰ってくださった言葉であることを改めて覚え、イエス様につき従っていくことに心を寄せたいと思います。

(逗子聖ペテロ教会牧師)


欅の坂みち

+主教 イグナシオ

 今年は梅雨明け早々に真夏日となり、ぎらぎらとした陽射しが毎日、照り付けています。

 主教館の周りの花壇には、今はマリーゴールドなど夏の草花が植えられていますが、小さな苗はこの陽射しと暑さのせいで花も葉もすぐにしおれてしまいます。

 見かねて水をやると、その小さな苗たちはしばらくすると元気を取り戻し、花も葉も生き返ります。水をやることに対してちゃんと答えてくれているようで、こちらも嬉しくなります。そして、暑さでしおれかけている花たちを見ると、何とかしてあげたいという思いになり、却ってこちらが励まされています。

 当然のことですが、植物は植えられたところから自由に動くことができませんので、花の苗は陽射しが照り付けてどんなに暑くても、そこを逃げ出して日陰に移ることはできません。陽射しが照り続ければ水分不足に陥り、ついには枯れてしまいます。水やりをするのは、苗たちにしてみれば、植えた人間の責任であり、当たり前のことといえるのかも知れません。

 苗たちはただ黙々と水がそそがれるのを待っているだけです。そして、水が灌がれると、しおれていた花も葉もいつしか元気を取り戻して答えてくれています。

 それは単に水を灌ぐだけのことなのではなく、そこには水を吸い上げてまた元気になってほしいという願いが込められてこそ、苗たちもそれに答えてくれているように思います。

 命を育て養うということは、すべての命あるものに対して、お互いにこのような相手を慈しむ思いのやり取りがあってこそ、生き生きとした関係が築かれるのではないでしょうか。

 なお続くコロナ禍にあって、神さまと私たち、そして私たちのお互いの関わり・繋がりも、常にこのようにありたいと思います。


※聖書本文は以下より引用しました。
聖書  新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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