目が見えるようになりたいのです

聖霊降臨後第22主日(特定25)

司祭サムエル北澤 洋

 イエス様がエリコの町を出て行こうとされた時、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。当時、目が見えないことは、自力で働くことができないことを意味しました。彼が生きるためにできることは、道端に座り、道行く人々に声を掛け、施しを受けることだけだったでしょう。彼のそれまでの人生は、おそらく、苦しみのうちにあったのではないでしょうか。

 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。彼は、人々のうわさから、ナザレのイエスという方がなさってきたことを知っていたのでしょう。目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにする方。弱い者や小さい者のために奇跡を行われる方。その方が、今、自分のそばを通り過ぎようとしている。彼は、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。

 イエス様は立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。人々が彼を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言うと、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ます。彼にとってその上着は、おそらくは唯一の財産だったことでしょう。それをかなぐり捨て、目が見えないために方向も定まらない中、彼は必死になってイエス様のもとへと向かうのです。今まで誰も、私のことなどまともに相手にしてくれなかった。道端で憐れみを請う私を、まるで存在しないかのように扱ってきた。しかし、この方は違う。この方は、私を心に留めてくださった。私の叫びに応えてくださった。そのような喜びと感謝の気持ちが、彼を包み込んだことでしょう。

 イエス様は彼に、「何をしてほしいのか」と問いかけます。すると彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。この答えは、彼の苦しみのただ中から発せられた叫びです。

 イエス様は、彼に言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。彼はすぐ見えるようになり、なお進まれるイエス様に従って行きました。

 イエス様は、彼の願いを聞き入れ、彼の目を見えるようにされました。なぜでしょうか。それは、叫ぶ彼のうちに信仰を認めたからに違いありません。彼は、「この方なら、私を救ってくださるに違いない」という必死の思いをもって、すべてをかなぐり捨ててイエス様を求めました。その思いこそ、信仰と呼ぶにふさわしいものです。

 彼は、エルサレムへの道を進まれるイエス様に従い、ともにその道を歩んでいきます。その道は、十字架へと続く道です。彼はその後、おそらくは十字架の出来事を経て、復活されたイエス様にも出会ったのではないでしょうか。そして、永遠の命へと結び合わされたことでしょう。

 私たちが彼のように、神様に必死に祈り求める時、神様はこの祈りに応え、主イエス・キリストを通して、私たちに救いをもたらしてくださいます。その救いとは、私たちの思いを越えた救い、すなわち、私たちが永遠の命へと結び合わされ、神様と一つとなる、そのような救いです。

 救いに繋がる十字架への道を、イエス様に従い、喜びと感謝の気持ちをもって、ともに行きましょう。

鎌倉聖ミカエル教会牧師
『横浜教区報』2021年12月号巻頭言より

特祷

特定25

旧約聖書

イザヤ書 59:9-19

詩編

13:1-6

使徒書

ヘブライ人への手紙 5:12-6:2,9-12

福音書

マルコによる福音書 10:46-52

※聖書本文は以下より引用しました。
聖書  新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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