女は荒れ野に逃げた-神の用意された場所があった

降臨節第4主日(夕の礼拝)

司祭 ダニエル 竹内 一也

 黙示録の記者ヨハネは、12章に来て、これまでの天から地上を見おろす視点を変えて、地上から天を見上げてプロジェクター・スクリーンを見るようにして竜と女の戦いの場面を見ています。

 「竜」は、9節にはっきりと書かれているように「悪魔(サタン)」を表しています。「女」は、古い契約の下のイスラエル、「シオンの娘」(擬人化されたエルサレム)と古くから考えられていました。新約聖書との関連では、「産みの痛みと苦しみ」(2節)からパウロの「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(ローマ8:22)
という言葉、そしてヨハネ福音書にある「女が子どもを産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハネ10:21)という主イエスが弟子たちを慰めている言葉を思い起こすと、「女」が被造物全体と連帯して生きている神の民、キリストを頭(かしら)としたキリストのからだとしての教会を表していると考えられます。

 物語の中でキリスト誕生のありさまは、こう書かれています。竜は、子どもが生まれたら食い尽くそうとして女の前に立っていましたが、子は生まれるとすぐに「神のもとへ、その玉座へと引き上げられ」ました。この物語の中ではキリストの誕生はキリストの死と結びつき、キリストが「主」としての力を手にするプレリュードとなります。キリストの誕生と死が固く結びついていることは新約聖書に一貫したテーマです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

 キリストの生涯と神の民の歩みとがつながっていることが、その後の女の歩みの中に示されています。彼女は荒れ野へ逃れますが、そこには彼女が「養われる(「聖餐」を意味しています)ように」場所が用意されています。(その一方、サタンは場所を失っています。(8節))これは、神の民がどんなに苦しい状況に追い込まれても、完全に安全が守られていることが表されています。物語は7-9節の挿入歌をはさんで17節まで続きます。彼女は鷲の翼を与えられて自分の場所に戻ることができます。最後の場面、竜が彼女を押し流そうとして大量の水を川のように流します。ところが大地が口を開けてその水を飲み干します。「しかし、大地が助けた。」(10節)神が創られたこの世界全体が神の民を守っているのです。大地が助けたーこれは黙示録のユニークなメッセージです。「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8:19)というパウロの言葉に呼応しています。

 第二バチカン公会議の著名な言葉に「巡礼する神の民」という言葉があります。「巡礼」とは、旅行会社が設定した安全なルートを進むことではなく、中世の巡礼のように危険と隣り合わせの道を歩むことを想定しています。この伝統的な言葉は、神の民が追いつめられていても負けることはないことを表しています。「陰府の門もこれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)

(横浜山手聖公会牧師)
『横浜教区報』2021年12月号巻頭言より

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