+主教イグナシオ
子どもたちが独立してそれぞれが家庭をもつようになると、親としての役目はひと通り終わったかのように思われますが、かえって心配ごとが増えたように思います。
私たち夫婦は5人の子どもを授かりましたが、3人はもう独立し、1人は今年社会人になり、もう1人は私たちより一足早く、14年前に神さまの許へ呼ばれてしまいました。
独立して遠く離れてしまうと、子どもとその連れ合いのこと、そして孫が生まれれば孫たちのことが気になります。
親は子どもが幾つになっても子どものことを心配していますし、孫が生まれれば、更に孫の心配も始まります。こうして、心配の種は尽きることがありません。
しかし、よくよく考えてみますと、心配する相手がいるということは、実はとても幸いなことなのです。なぜなら、それは、神さまが与えてくださった愛すべ
き存在、自分にとって掛け替えのない存在がいるということなのですから。
私たちのこの世の命には時間的な限りがあり、誰もがいつかはこの朽ちる体を離れて、神さまの御許に帰って行かねばなりません。
本当に心配ごとがなくなるのは、そのような時なのでしょう。
その時まで、どれだけ多くの人のことを心に掛け、心配することができるでしょうか。そして、お互いがそのように心配し合う関係、つまり自分のことはさておいてでも、相手を気に掛け心を痛めていく関係が、神さまがイエスさまを通して現してくださった「互いに愛し合う」ということなのではないでしょうか。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言われる主イエスさまのみ声を聞き、心配の種が尽きないことの幸いを思いつつ、新たな心配の種を求めて行きたいと思います。
『横浜教区報』2021年12月号 1面より