世界ではじめのクリスマス

主教イグナシオ入江 修

『横浜教区報』2022年1月号巻頭言より

クリスマス・メッセージ

 「世界ではじめのクリスマスは ユダヤのいなかのベツレヘム」という、日本の巷のような華やかなクリスマスとは対照的でちょっと物寂しい曲調で始まる歌があります。

 生まれたばかりのイエスさまのそばにいるのは、マリアとヨセフと、そして牛やロバたちだけでした。薄暗くて決して快適とはいえなかったであろう家畜小屋で、神の独り子であるイエスさまは世にお生まれになりました。人が宿るところには場所がなく、神のみ子が宿られるには最もふさわしくない場所です。

このように最も貧しく、最も弱く、そして最も小さなお姿で、幼いイエスさまは私たちのところに来られたのです。

 けれども、人が泊まるのにどれほどふさわしくない場所であったとしても、神のみ子がおられることにより、まさにその家畜小屋は、世界ではじめの真のクリスマスの場所となりました。そこがたとえどのようなところであろうとも、イエスさまがおられるところがクリスマスなのです。

 聖ルカの福音書によれば、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちがそこを訪れ、幼な子のイエスさまをキリスト(救い主)として拝みました。そこはご馳走もケーキもワインもなく、飼い葉桶とわらしかない、ほんとうに何もない小さな小さなクリスマスでした。しかし、最も喜びと祝福に満ちたクリスマスだったのです。

 聖マタイの福音書は、神のみ子が世においでになるというクリスマスの出来事をインマヌエル(神は我々と共におられまる)と述べています。

 神さまはイエスさまにおいて私たちと共におられます。イエスさまは、共におられる神としてこの世に降り、私たちの間に宿られました。それは、人の力をはるかに越えた絶大な力をもって私たちを救うというよりも、どこまでも私たちと共におられて共に泣き、共に痛み傷つき、そして血を流して、命の喜びを与えてくださる神なのです。

 聖マタイの福音書の結びで、復活された主イエスさまは「わたしはいつまであなたがたと共にいる」と言われて弟子たちを世にお遣わしになっています。

 クリスマスとは主イエスさまをキリスト(救い主)として私たちが礼拝することです。そしてその礼拝とは、イエスさまが命じられた聖餐式であり、そこで私たちはイエスさまを受けるのです。

 イエスさまを受けて、聖パウロが述べているように、私ではなくイエスさまが私の内に生きてくださるようになるのです。イエスさまの命を受けて、そのようにして私たちも生かされていくのです。

 最初に触れた歌は、各節に「グローリア、インエクチェルシスデーオ」というラテン語のおりかえしがありますが、それは「いと高きところには、栄光神にあれ」という、聖ルカの福音書第2章にある、野宿していた羊飼いたちの前に現れた天の大軍の賛美の歌です。そして再び物静かな曲調に戻り、「世界ではじめのクリスマスは小さな小さなクリスマス けれどもよろこび満ちあふれた気高いまことのクリスマス」と結ばれています。

 私たちは、最も貧しく、弱く、小さなお姿でおいでくださる神の独り子が宿られる場所を、常に私たちの中に備えて、インマヌエルの主をお迎えし、これからも共に泣き、共に痛み傷ついて、私たちを甦りの命に生かしてくださる主と共に信仰の道をひたすら歩み続ける者でありたいと思います。

(横浜教区主教)

 

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