「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」

顕現後第七主日

司祭 パウロ 眞野玄範

甲府聖オーガスチン教会牧師
長坂聖マリヤ教会管理牧師

「敵を愛せ」というイエスの教えをめぐる話し合いでよく聞かれるのが、家族が暴行を受けるようなことがあってもこの教えに従えるのか、という疑問です。加害者に対して怒り、憎しみの感情を持ち、報復を願う気持ちを持つのが人間として自然ではないか、それがむしろ道徳に適うことなのではないか、加害者を愛するなどできるはずがないではないか、という疑問です。

 日本では昔は敵討ちが制度として認められていましたし、今も死刑制度廃止への反対の論拠として遺族の報復感情が満たされるべきだという主張が説得力を持っています。日本で死刑制度廃止の議論が進まないのは、冤罪の存在を否定してきた司法の在り方の問題に加え、人道的理由という論拠が理解されずに報復感情よりも説得力を持っていないからではないでしょうか。しかしそれは、遺族も含め、わたしたちが人間性を失わないため、ということなのです。そしてそれが、「敵を愛せ」という言葉で、イエスがお教えになったことなのです。

 2002年、一人のパレスチナ人がキブツ(農村共同体)に侵入して三人の大人と二人の子どもを殺害する事件が起きました。子どもたちは母親から物語の読み聞かせをしてもらって就寝するところでした。このキブツの人々はもちろんのこと、イスラエル中が衝撃を受けた事件でした。イスラエルは集団的懲罰を加えるのが常で、投石に対して空爆で報復することもあります。しかし、この時はそうなりませんでした。このキブツの事務長は「復讐心に駆られるのは自然なことだが、我々には、願いを忘れず、隣人と平和の内に生きたいと切望する信仰者として固く留まる強さが必要だ。多くのパレスチナ人はテロリストではないのだ」と述べました。人間らしい共同体を築くという所期の目的を堅持し、復讐を望まないと表明したのです。翌々年、イスラエルがこの地域にも分離壁を建設してパレスチナ人が遠くの検問所を通らなければ自分の畑に行けないようにした時には、このキブツは壁の下に下水管を通してパレスチナ側の村々の下水を受け、キブツの池で浄化して、それを彼らの畑の灌漑にまわすようにしました。このような平和的共存が実現している背景には、このキブツの誕生以来の歴史があります。1948年、イスラエル建国の過程で500以上のパレスチナの村々が破壊され、その跡にキブツがつくられました。ここもその一つでしたが、他とは違って、当初から双方が共存の道を実践してきました。井戸を掘っても水が出なかったこのキブツに、近隣のパレスチナの村が自分たちの小さな井戸から水をひきました。50年間そうして助け合ってきて、互いを人として見る関係ができていたのです。

 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とイエスはお教えになりました。「敵を愛する」とは、神のすがた、かたちに造られた者としての本来の在り方の回復を求めながら生きることなのです。そしてそれは、相手を人として見ること、自分と同じように神のすがた、かたちに造られ、神にとってかけがえのない存在である者として大切にするように努めることなのです。

『横浜教区報』2022年2月号巻頭言より

 

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