「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」

大斎節第3主日

司祭 テモテ 姜 暁俊

小田原聖十字教会牧師
秦野聖ルカ教会管理牧師

    主にプロテスタント圏の神学論争ではありますが、教会の中で昔から議論されている神学の内、「アルメニアン主義とカルヴァン主義」というものがあります。これは神様から与えられる救いの主権とそれに与る人間の立場に関する論争です。主義それぞれの具体的な説明は割愛させていただきますが、この二つの立場の論争の中で、大斎節の事柄と関連する重要な問いがあります。「救われた者がその救いを失うことはあり得るか」という問いです。「救い」というものは神様から与えられる恵みでありますが、現実の世界では神様の恵みに与った者でも信仰から遠ざかり、その恵みと関係ない人になるばかりか、積極的に神様 の恵みに反し、神様のみ心に逆らう生き方に走る人たちもいます。この人たちのことをどう思うか。カルヴァン主義は「この人たちは実は神様が選んだ本当の信仰者ではなかったのだ」と答えを出す反面、アルメニアン主義は「一度信仰を持って恵みを得たけれど自分の意志でその恵みから遠ざかったのだ」と答えます。どちらも深い考察がありますが、少なくとも大斎節の事柄を黙想するにはアルメニアン主義の方が役に立つように感じます。

    大斎節第3主日(C年)に使徒書として用いられるコリントの信徒への手紙の中でパウロは偶像崇拝と性的放縦等、様々な問題を抱えているコリント教会の信徒たちに、過去 のイスラエル民族の例を用いて厳しく警告しています。はるか昔、神様から選ばれ、恵みに与ったイスラエルの民も神様のみ心に適わず、滅びに至ってしまいました。そのように、全ての人にその可能性があるので、立っていると思っている人は倒れないように気をつけなさいとパウロは語っています。(Ⅰコリント10・12)

    私たちは無意識のうちに、自分を過大評価する傾向があります。まるで救いの恵みに与るのに十分な資格があるかのように、神様の恵みから遠ざかることは決してないかのように考えることを度々目にします。

 しかし、私たち人間はすべて、いつでも倒れ、神様のみ心に適わなくなる可能性がある、か弱い存在です。「自分はいつでも神様から愛されている」と自分に言い聞かせることはとても大切ではありますが、時には自分自身がどれほど弱く、また神様のみ心に適わないところが多い存在なのかを忘れる可能性があると感じることがあります。

 そんな意味で大斎節は今の自分を顧みる良い機会でもあります。自分の満足のために神様を、隣人を傷つけたことはないのか。自分の生活は果たして救いに与った者に相応しく、神様のみ心に適っているだろうか。立っていると思いながら実は倒れつつあるのではないだろうか。この大斎節を通して、神様のみ前でじっくり問うていきたいものです。

『横浜教区報』2022年3月号巻頭言より

SNSへのシェアはこちらから
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!