「あなたがたは死んだのであって…」

イースター・メッセージ

主教 イグナシオ 入江 修

 今年の復活日は4月17日と遅めの日程になっています。それは、復活日が月の満ち欠けによって毎年移動するためです。

 さて、聖パウロはコロサイの信徒への手紙の第3章3節でこのように述べています。この箇所は毎年、復活日に読まれています。「あなたがたは死んだ」とは、私たちがイエスさまと共に死んだことを指しています。なぜなら、死ななければ死からの復活は起こり得ないからです。

 しかし、では死ぬとはどういうことなのでしょうか。それは、罪に死ぬ、すなわち罪にあって死んだ者となるということです。罪とは、神さまのみ心に背くことであり、創世記第3章で神さまから「食べるな」と言われていた木から人がその実を取って食べてしまったことに象徴されています。つまりそれは、神さまの戒めを捨てて自分の欲するままに生きようとしたことを表しており、そこからさまざまな悪が生じます。そのような悪を捨て、悪によってもたらされる罪から自らを切り離すこと、それが罪に死ぬということではないでしょうか。

 大斎始日から始まって主日を除いた40日である大斎節を過ごすということは、私たちがそのようにして罪に死ぬことを意味しています。大斎節を過ごすということは、いかに私たちが悪を捨てて神さまのみ許に立ち返り、罪に死ぬことができるかを自らに問い掛けるときなのですが、そこから明らかにされていくのは、自らの罪の深さです。従いまして大斎とは、自らの罪の姿といかに向き合うかを自らに問うときとも言えます。

 しかし、私たちが自らの力をどんなに尽くしたとしても、罪に死ぬことはできません。自らの罪の姿と向き合っていった結果、私たちはそこに辿り着きます。

 なぜなら、たとえそのような思いはあったとしても、どこかで私たちは古いままの己を捨て切れず、新しく生かされることを拒むからです。

 そこで私たちは、イエスさまにより頼まなければなりません。洗礼式文において、司祭は、「どうかこの水を聖別し、これによって洗われるこの人(びと)に聖霊を降し、すべての罪を赦し清めて新たに生まれさせ、キリストの死と復活のさまに等しくし、神の家族である教会に迎え入れ、キリストに満ちみちている永遠の命にあずからせてください。」との祈りをもって水を聖別します。

 ここで洗礼受領者は、「キリストの死と復活のさまに等しく」される、つまり救い主であるイエスさまと共に古い自分に死ぬのです。

 そしてイエスさまと共に罪に死んだ者だけが、イエスさまと共に復活の命を生きる者とされます。主イエス・キリストによって初めて、私たちは罪に死ぬことができるのであって、罪に死んで初めて、主と共に新たに生きる者とされるのです。

 その意味で、大斎節は私たちを主イエス・キリストの死に与らせるための期節なのです。イエスさまが十字架に向かわれるみ跡をごいっしょに最後まで辿り、主によって罪に死んだ者とされ、主のご復活の命に与って新しく生きる者とされてゆくのです。

 主のご復活、ハレルヤ!

『横浜教区報』2022年4月号巻頭言より

 

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