欅の坂みち2022年5月号
3月21日でまん延防止等重点措置が解除された後、じんわりと新規感染者が増える傾向を見せ始めました。
礼拝の公開を続けたまま、聖週、そしてご復活日を迎えられることを祈るばかりです。
聖マルコの福音書第2章23節以下に、安息日に関わる話があります。安息日に弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見て、それは許されていないとファリサイ派の人々が咎めます。するとイエスさまは、ダビデがしたことを例に出され、こう反論されます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と。
律法に従えば、確かにファリサイ派の人のいう通りだったのかも知れません。しかし、ファリサイ派の人には、そこで飢えている人が目に入りませんでした。彼らが見ていたのは、安息日に関わる規則でした。
それに対してイエスさまが見ておられたのは、空腹の弟子たち、つまり人でした。福音書に記されている話の中で、イエスさまの見つめておられる先は規則や物ではなく、そこにいる人でした。
イエスさまの目の前にいる人、それは痛み、傷つき、苦悩や悲しみを抱えた生身の人間でした。
ファリサイ派の人は規則を見ていましたが、人が見えていません。しかし、イエスさまはご自分の目の前にいる人を見ておられ、その人の痛みや苦悩を憐れみ、寄り添っていかれます。
3年目を迎えているコロナ禍も、そしてウクライナで起きている力の行使も、その中で喘ぎ、苦悩し、傷つき、呻いている人を私たちは見失ってはなりません。
どこまでも人を見つめていくところに、私たちの目にもイエスさまが見ておられたのと同じものが見えてくるのだと思います。