「慰めの子」の生涯に想いを寄せて

司祭 エドワード 宇津山 武志

静岡聖ペテロ教会牧師
清水聖ヤコブ教会管理牧師

使徒聖バルナバ日

レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフ》。彼は《マルコと呼ばれるヨハネ》の従兄弟でした。伝承も繋ぎ合わせると、エルサレムにはマルコの母マリアの家があり、そこは最後の晩餐や聖霊降臨の場でもありました。イエスを救い主と信じる人々の産声を上げたばかりの群れにとって、ここは教会へと成長していくゆりかごのような場所であったと想像できます。聖書にははっきりと書かれていませんが、バルナバもユダヤ教徒としてエルサレム神殿に詣でるときには親戚筋のマリアの家に滞在したのでしょう。ここを接点に、やがて主イエスへの信仰に導かれ、エルサレム教会の中心的指導者の一人となっていきました。教会のために持っていた畑を売ってその働きを助けたのは有名なエピソードです。

 キリスト教最大の使徒といえばパウロ。しかしそこに至る道は平坦なものではありませんでした。何せ彼は厳格なファリサイ派のユダヤ人として主イエスの弟子たちを迫害し、ステパノの殉教の折にも立ち会っていたほどです。回 心した彼はイエスを救い主として仰ぎ証しする宣教者として生きるため、ペトロら使徒の中心人物に面会を求めてエルサレムへと向かうのですが、彼らの反応は芳しいものではありませんでした。わたしだったら?と考えてもそれは当然のことのように思われます。「あんな奴、信用できるか!」と。しかし彼を信仰の友、ともに歩む証し人として迎え、使徒たちとの仲を取り持ったのが他ならぬバルナバでした。バルナバがいなかったら、異邦人の使徒パウロは歴史に登場しなかったかもしれません。

 ステパノの殉教を機に起こった迫害のために散らされた人々は、やがてその地でギリシア語を話す人々へもみ言葉を語り始めました。アンティオキアもその一つで、信じて主に立ち返った人が大いに増え、バルナバは彼らの司牧のために遣わされました。《聖霊と信仰とに満ち》、《立派な人物》であったバルナバの働きにより信ずる人の数はさらに増え、これは一人では手に負えないと思ったのでしょう、彼はタルソスにいるパウロに助けを求め、ともに福音宣教に勤しみ、ここで初めて、弟子たちが《キリスト者》と呼ばれるようになったのです。

 彼はパウロの第一回宣教旅行にも同行しました。このとき従兄弟のマルコも連れて行くのですが、これが彼とパウロとの親交に影を落とすことになってしまいます。理由は定かではありませんが、マルコが途中で帰ってしまったのです。第二回宣教旅行に際し、バルナバは再びマルコを連れて行こうとしましたが、パウロはこれを受け入れず、二人は別行動を取るに至りました。しかしバルナバの包容力が、後の最初の福音記者、マルコを育てたのでした。

『横浜教区報』2022年6月号巻頭言より

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