「一緒に食事をして喜ぼう ー洗礼と聖餐への招きー」

司祭 ヨハネ 前田 浩
銚子諸聖徒教会牧師

聖霊降臨後第14主日(特定19) 

皆さんはどう思いますか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出てしまったことを。
「九十九の羊は、おりにあれど、一つは迷いて、野やまにあり」(聖歌三七三番)。この状況が、今の自分の生活の中で見えているだろうか。聖歌の作者は、主イエスとの交わりの中で迷い出た羊を〝野やまにあり〟と見た。でもわたしたちはどうだろうか。
主イエスはわたしたちに語り掛ける。「一匹を見失った」と。では、見失ったままでよいのだろうか。「わたしは見つけ出すまで捜し歩く」と、主は言われる。九十九と比べると、み守りを離れた一つであるこの小さなものをも我がものなりと大切に、そして必要とされる主の御心が、捜し歩く姿に映っている。この捜し歩く生き方を、「遠く求め行き、山川過ぎ、日暮るるもやめず、呼びて訪ぬ」と聖歌は謳う。迷い出たものの耳に、呼びかける主のみ声が届き、小さな応答のうめき声が跳ね返り、主が全身でその声を受け止められている。離れ、迷い出て、多くの人が見失ったこの一匹に、天父が必要なものを用意くださる。「険しき旅路を辿りし主は、あまたの棘にて刺されたもう。傷つきし御手を主は羊に伸ばさん」。
主の御手は、十字架処刑の釘によって傷ついている。十字架上から主は傷ついた御手を伸ばされ、迷い出たものに触れられる。小さな応答の声を主に向けたものが、十字架上から伸ばされた御手によって、赦しの招きに引き寄せられる。主御自らの招きの実践〝喜んでその羊を担いで家に帰る〟光景に、わたしたちは出会う。罪の赦しの十字架を担がれた主が、迷い出て見失われたものを見つけ出して担いでくださる。そして我が家に帰る。「帰れや我が家にと、主は今呼びたもう」との、天上の賛歌が地上に響く。わたしたちは血潮を流された主が、御手を広げて「命を受けよ」(洗礼と聖餐)と呼ばわれる声を、この迷い出た羊のドラマから聞き、招きに陪る。
主イエスが、小さなこの一つに目を留められ、とことん捜され、愛の心を注いでくださった。そして共にいるようにと、「見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言われて、自らの宴(我が家)にお連れくださり、主イエスと一緒の食事の交わりの中に置かれた。
「帰ってらっしゃい。命を受けましょう」と呼びかけ祈り続ける教会共同体は、招かれ、また帰って来て食事を一緒にするもののために神のふところ(おり=野原=緑の牧場(まきば))で、聖卓を整えて待つ。
これは聖餐への招きと回復、天と地の喜びの宴です。
今日、主イエスが小さな一つであるあなたを見つけ出してくださり、傷ついた主ご自身の御手で担ぎ上げ、喜びの宴に招かれる。聖歌(三七三番)を賛美しつつ聖餐の宴に加わり、一緒に喜びましょう。

(『横浜教区報』2022年9月号巻頭言より)

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