「気を落とさずに絶えず祈る」

司祭バルナバ田澤利之
千葉復活教会牧師
福田聖公会管理牧師

聖霊降臨後第19主日(特定24)

ある町に、夫を亡くした一人のやもめがいて、ある人からひどい仕打ちを受けて困っていました。そして、裁判官のもとにやってきて、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言いました。しかし、この裁判官は、訴えを聞いてくれなかったのです。しかし、このやもめは何度も裁判官のもとにやって来ては同じことを大声で叫び続けたのです。この裁判官は、このやもめの訴えを取り上げる気が全くなかったのですが、余りにもしつこく、うるさくてかなわないので、ついに裁判をしてやろうという気持ちに変わったのです。このまま放っておいたなら、ひっきりなしにやってきて、自分をさんざんな目に遭わせるに違いないと思ったからです。「さんざんな目に遭わせる」という言葉は、拳で目の下を狙い打ってあざを作るというのがもともとの意味です。このような勢いをこのやもめは持っていたのです。

ところで、イエス様は、弟子たちに、どうしてこのような譬え話しをなされたのでしょうか。それは、人間が生きていくうえには、楽しいことばかりではなく、困ったことや辛いこと、悲しいことが起こり、生きる力を失うような事が数多くあるからです。ですから、もし、そうなったとしても、無気力、自暴自棄にならず、気を落とさずに、根気強く、神様を信頼して、お祈りを続けるようにしなければならないことを教えるためでした。

主イエス様は言われました。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」不正な裁判官でさえ、しつこくうるさく言って来られれば、その人のために裁判をしてやろうという気持ちになる。まして、神様は、毎日、昼も夜も叫び求めている人たちのために裁きを行なわずに、いつまでも放っておかれるようなことがあるだろうか。諦めないで、祈り続けなさい。そうすれば、祈りは必ず聞かれる。神様は、願う前から、既にその祈りの内容を知っており、聞き届けて、速やかに解決しようとされている。だから、どんな時であっても、決して諦めず、気を落とすことなく、祈り続けなさいと言われたのです。

私たちは、とかく、困ったこと、辛いこと、悲しいことが起こると、神様はいないのではないか、どうして黙っておられるのだろうかと思いがちです。そして、祈ることをやめ、諦めてしまいがちです。しかし、これは、キリスト者である私たちの正しい姿ではないのです。根気強く祈るということは神様と格闘するように祈ると言い換えても良いことなのです。祈りというのは、そういうものなのだと言われているのです。

(『横浜教区報』2022年10月号巻頭言より)

SNSへのシェアはこちらから
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!