「罪人を招くために ~聖マタイの姿から~」

司祭サムエル小林祐二
清里聖アンデレ教会牧師
長坂聖マリヤ教会管理牧師

聖霊降臨後第二主日(特定5)

A年特定5の福音書は、マタイがイエスさまに従う場面です。このマタイがマタイ福音書の著者だと理解されてきましたので、この箇所は著者自身が登場する「証」の箇所だと言えるでしょう。収税所に座って税を取り立てていたようなマタイがなぜ聖マタイとなり福音書を記すまでに至ったのでしょうか。


収税人は同胞からローマへの税金を取り立てる仕事で、余分に取り立てても表立って文句を言われることはなかったようです。ある意味で“安定した”収入があったと言えそうで、マタイも当初は金銭的な理由で収税人になったのかもしれません。しかし耐えがたい代償があったように思います。収税対象となった同胞に対し、良心を押し殺して無慈悲に接する必要もあったでしょう。


気づけば孤独になり、後ろ指を指されるような生きづらい世界に足を踏み入れてしまったマタイ。イエスさまは、収税所に座るその寂しい眼差しを見逃されなかったのではないでしょうか。「わたしに従いなさい」のたった一言が、他者からの声に飢えたマタイにどれほど暖かく響いたことでしょう。


歩き始めはスムーズではありませんでした。ファリサイ派の人びとからすれば、さっきまで収税所に座っていたマタイは他国に仕える罪人に変わりなく、食事をともにしようとされるイエスさまも同類です。食卓には食べ物だけでなく生活上の規範も乗っていたのです。イエスさまは旧約聖書の「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」という言葉を行動で表されます。罪人を断罪し続けることではなく回心を促すため、マタイと食事をともにされるのです。


ファリサイ派の怒りと収税人から福音記者へと導かれるマタイの喜びとが強いコントラストをもって問いかけます。時として自分の罪に気付けないほど罪深く、全てがイヤになるほど弱く、人生という地図の真中にいるはずなのにすぐ場所を見失ってしまうほど小さいわたしたちですが、イエスさまの「わたしに従いなさい」という招きの声は、そのような自分に気づくときこそ響いてきます。使徒書で「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」と語られるように、わたしたちも信仰による義を養いたいものです。


三位一体主日が過ぎ、主日の祭色も緑色となりました。聖霊の導きのもと、この時期の木々の葉のように健やかな成長を遂げられるよう、イエスさまの招きの声に従って参りましょう。

(『横浜教区報』2023年6月号巻頭言より)

以下の旧約聖書、使徒書、福音書は『聖書 新共同訳』より引用しました。
©︎共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
©︎日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

旧約聖書 ホセア書 5:15-6:6

15わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。
彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め
苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。

1「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
主は我々を引き裂かれたが、いやし
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
2二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
3我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」
4エフライムよ
わたしはお前をどうしたらよいのか。
ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消えうせる露のようだ。
5それゆえ、わたしは彼らを
預言者たちによって切り倒し
わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。
6わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。

詩編 50:7-15

7 「わたしの民よ、聞け。わたしはお前に語る‖ イスラエルよ、わたしはお前を戒めよう。
   わたしは神、お前の神
8  わたしが責めるのは、いけにえのためではない‖ お前の燔祭は、いつもわたしの前にある
9  わたしはお前の家の若い雄牛を‖ 囲いの中の雄山羊を求めはしない
10 森の生き物、山の獣‖ すべてはわたしのもの
11 空を飛ぶすべての鳥‖ 野原を駆けるものはわたしのもの
12 わたしが飢えることがあろうか、お前に求めることがありえようか‖
   世界に満ちるすべてのもの、それはわたしのもの
13 わたしが雄牛の肉を食べ‖ 雄山羊の血を飲むだろうか
14 いけにえとして感謝を献げ‖ お前の立てた誓いを果たせ
15 苦悩の日にわたしを呼び求めよ‖ わたしはお前を救い、お前はわたしをたたえる」

使徒書 ローマの信徒への手紙 4:13-18

13神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。 14律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 15実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 16従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 17「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。 18彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

福音書 マタイによる福音書 9:9-13

9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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