+主教イグナシオ
欅の坂みち 2023年11月号
親が自分の子どもを虐待するニュースを耳にするたびに、いたいけな子の痛みや苦しみを想像すると、孫たちの顔が脳裏をよぎっていたたまれない思いになります。
本来、人間も含め生きものにとって子孫を残すことは重要なことであり、一つの使命でもあります。自然界では、子どもを助けるために親は自分の命さえ省みずに、自分よりも強い相手に対しても勇敢に戦いを挑むこともあり、自らが傷ついてもなお、子どもを守ろうとする姿には感動を憶えます。
京アニの事件では、火をつけた犯人は、大勢の人が亡くなるとは思わなかったといった供述をしていますが、それは言い換えますと、自分がこれからやろうとしているその相手に対しては、何ら心を動かすことがなかったことを表しています。
嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、ありがたいことなど、日々、私たちは心動かされることに出会っていると思うのですが、そのことに自分の心が動いていないとしたら、それは感動のアンテナが錆びついて無関心になっているのではないでしょうか。
無関心とは、相手の存在そのものをまるで存在していないかのように見過ごすことです。
「傍観者」という言葉がありますが、先日行われた管区のハラスメント防止研修では、「傍観者」は決して中立ではなく、むしろ二次被害を引き起こす加害者となり得ることが指摘されていました。
直接、加害に加担している訳ではないのですが、結果として被害を大きくしていくことに加担してしまっているというのです。
福音書には、イエスさまが人を深く憐れんでみ業をなさったことが記されています。そこには、イエスさまご自身が深く心を動かされていることがよく表されていると思います。