+主教イグナシオ
欅の坂みち 2024年1月号
毎主日の説教や勧話の準備は、教役者にとって必須のもので、主日の夕方はヤレヤレと思うのですが、それは次の主日の説教準備の始まりでもあります。
私は、ひとつのことに時間が掛かってしまうので、火曜日の朝の礼拝前の黙想の時から、次の主日の聖書箇所をまず読み、神さまは私に何を語らせようとしておられるのかを思い始めます。あくまでも主語は「私」ではなく、「神さま」です。「私」が前面に出る時、それは「み言葉」ではなくなってしまうからです。しかし、神さまが何を語れと仰っておられるのかは、私には、そう簡単にはなかなか見えて来ません。何度もみ言葉を読み返し、メモした箇所を読み返すうちに、あるとき、そこに何を語るべきか、すっと視界が開けてくるように感じることがあります。それは、はっきりと「これだ」というよりも、何となく「これかな」というのが正直な感覚です。その「これかな」をまた何度も思い巡らしていくうちに主日が迫って来て、原稿にする際にも正に格闘しながら「私」ではなく「神さま」が語られようとしていることは何かを必死に求める他ありません。
自分としては精いっぱい準備したつもりではあっても、そこで語られたものが充分であったかどうかは、語った瞬間に私の手を離れて神さまに託され、会衆に届けられます。
エリコで盲人が「目が見えるようになりたいのです」(マルコ10:51)と切々と訴えます。イエスさまはその訴えを聞かれてその人の目を開かれると、その人はイエスさまに従います。そのとき、その人は単に目が見えるようになっただけでなく、イエスさまを救い主として見る目が開かれます。私自身、欠けた器に過ぎませんが、それでも、み心が行われる器とされることを絶えず祈り求めていきたいと思います。