「紅海を越えて生きる喜びを」

司祭エドワード宇津山武志
静岡聖ペテロ教会牧師
清水聖ヤコブ教会管理牧師

大斎節第5主日

旧約聖書には、神がその民に何かを語りかけるときの自己紹介とも言える定式があります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」「奴隷の家から導き出された」という言葉の中に、わたしたちにも他人事とはいえない、神とわたしとの関係が示されています。

「真理はあなたたちを自由にする」というみ言葉がヨハネ福音書に記されていますが、わたしたちを縛り付けていたさまざまのものがある。がんじがらめにしていた何かがある。主イエスとの出会いによって、わたしたちはそれらのものから解き放たれました。実感は湧きにくいかもしれませんが、わたしたちを自由にする術、道というものを示されました。それは、ばらばらのジグソーパズルの完成図を見るのに似ています。

イスラエルの民が追っ手を逃れてエジプトを脱するのは、簡単なことではありませんでした。背後には武装したエジプトの大群、眼前には行く手を遮る海、まさに“万事休す”です。神は、モーセは、わたしたちを「乳と蜜の流れる地」へと導いてくださるはずではなかったか。こんなことならエジプトにいればよかった…、エジプトでは奴隷ではあったけれど、食べるものはたくさんあったと。

わたしたちの受ける“洗礼”は、イスラエルの民が紅海を越えて奴隷の家から導き出されたこの故事に象徴的に示されています。わたしたちは、洗礼という水の中を通って救いの国へと入れられ、新しき契約の民とされますが、洗礼は可視的・科学的に受けた人の生を変えるわけではありません。洗礼を受けた後も、わたしたちには飢えや渇き、苦難がついてまわります。海の向こうが恋しくなることがあるでしょう。口に運び、味わい、空腹を満たすことのできる食べ物、手に取ることのできる富が恋しくなる。食に追い回され、金に振り回される奴隷でもかまわない。“万事休す”。そのとき、わたしたちは神のたもう糧、神のたもう富、神の力に目と心が向かわなくなってしまうのです。理屈や理性で捉えることのできないものに身を委ねて生きていくのは容易なことではありません。

「人の子が栄光を受ける」決定的な瞬間は、ギリシア人の来訪によって訪れました。新約聖書の中で、“ギリシア人”は、単なる人種とか国籍といったものを表すに留まりません。“ギリシア人”に対する“ユダヤ人”は、自分たちだけを“選ばれた民”とする優越感とか差別意識を伴います。“ギリシア人”は“異邦人”、さらに“すべての民”を象徴する言葉として使われます。

「新しい契約を結ぶ日」は、イエス・キリストにおいて成就しました。それは、ユダヤ人に留まるものではなく、ギリシア人、すなわちすべての民に及ぶものであることを、今日わたしたちはこの出来事から学びます。

あらゆる困難、あらゆる絶望を乗り越え、神の言葉を信じ、紅海に一歩踏み出しましょう。荒れ野の旅路を主は深い慈しみをもって約束の地へ導いてくださります。

(『横浜教区報』2024年3月号巻頭言より)

以下の旧約聖書、使徒書、福音書は『聖書 新共同訳』より引用しました。
©︎共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
©︎日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

旧約聖書 エレミヤ書 31:31-34

31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

詩編 51:10-15

10 神よ、わたしのうちに清い心を造り‖ わたしのうちに正しい霊を新たにしてください
11 あなたのもとからわたしを退けず‖ あなたの聖なる霊を取り去らないでください
12 救いの喜びをわたしに返し‖ 喜び仕える霊でわたしを支えてください
13 わたしはとがある人に、あなたの道を教えよう‖ 罪人があなたのもとに帰るように
14 神よ、あなたはわたしの救い。死の嘆きからわたしを助け出し‖ あなたの正義を歌わせてください
15 主よ、わたしの口を開いてください‖ わたしはあなたの誉れを告げ知らせる

使徒書 ヘブライ人への手紙 5:(1-4),5-10

1大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。 2大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。 3また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。 4また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。


5同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。 6また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。 7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 10神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

福音書 ヨハネによる福音書 12:20-33

20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

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