欅の坂みち 2024年8月号
+主教イグナシオ
6月28日、教区としては5年ぶりの聖職按手式が執り行われました。
公示に記されていたように、「神のお許しがあれば…」という限定された条件のもと、教区内外の多くの祈りに支えられてその日を迎えることができました。
多くの人たちが、私も含めて何度、志願者の名前を、繰り返し憶えたことでしょうか。聖職に按手・叙任されるということは、志願者本人の祈りもさることながら、それだけで事は成就しません。そこには、多くの人たちの祈りが重なり合って初めて、実現されます。洗礼へと導かれ、堅信式に与り、聖職候補生に志願し、神学校では自らの召命を何度も繰り返し省察し、次に牧会現場へと派遣され、そしてようやく執事志願に辿り着くのです。
志願の後、試験を受け、按手式の公示を経てリトリートに入り、その上でやっと按手の日を迎えます。
その日に至るまでどれだけ多くの人の祈りがささげられたことでしょう。その一つひとつの祈りをもって支えられ、そこで初めて、一人の聖職が神の許しを受けて叙任されるのです。
ですから、聖職は何よりもまず祈る人でなければなりません。なぜならそれは、自らが多くの人の祈りによって支えられ立てられており、今もなお支えられているからです。
そして、いつでも祈りの人でなければなりません。嬉しい時も悲しい時も、幸いな時も災いの時も、常に主のみ名を賛美し感謝をささげて、十字架を前にしたイエスさまのように、また主の祈りの言葉にあるように、み心が行われることを祈り求めてゆくのです。
また、求められたら、いつでもそれに応えて祈る者でなければなりません。祈りによって支えられている者は自らが常に祈り、祈りによる交わりの中、主に召された道を日々、歩み続けて行くのです。