+主教 イグナシオ
地方の教会を巡杖しておりますと、その地方で収穫された食材を使って愛餐会が用意されることがあります。その教会の方が自宅の庭や畑で育て収穫された新鮮な食材が、調理されて並べられます。
それらの食材は、必ずしもお店で高価に売られているようなものではなく、その土地の人たちの食生活において、その時期になればごく自然に収穫される食材なのです。
しかし、それはミシュランの星の数をもってその価値が定められるような世界とは全く別の世界であり、そこには別の価値観があります。その季節にそこでしか味わえないという意味では、いくらお金を出しても味わうことのできないものであり、とても贅沢で豊かな食卓です。
豊かさを測る物差しは、そこに掛けられたお金の額によって決まるのではなく、もっと別の尺度、それは自然を通して私たちに与えられる神さまからの恵みの賜物という物差しによって測られなければならないのではないでしょうか。
その季節にそこでしか味わえないという他に代え難い価値が見出される時、それは高級レストランで出されている高価な食材やそれを使って調理されたものとはまったく別の豊かさが、そこにあります。なぜなら、それは、いくらたくさんのお金を出したとしても決して手に入れられないものだからです。
そのような視点から改めて見直してみると、この過ぎ行く世の豊かさにとっぷりと浸ってしまっている自分に気付かされます。いくらお金を持っていたとしても、お金そのものでは空腹を満たすことも寒さを凌ぐこともできません。私たちは、お金を通して必要とするものを手に入れることができるからこそ、そこに日々の生活が成り立っています。しかし、もしその前提が崩れてしまったら、お金そのものの価値は失われてしまうでしょう。
秋の実りの内に、神のみ前にある豊かさを憶えて感謝したいと思います。
(『横浜教区報』2025年12月号より)




