+主教 イグナシオ
車の免許を取った学生の頃は、運転で怖いと感じた記憶があまりありません。むしろ、年を経て経験を重ねてからの方が、その怖さを多く感じるようになりました。それは、若さと未熟さ故に危険を感じなかった、というのが真実のように思います。
主教になり主日ごとに教区内の教会を巡杖するようになると、式服や牧杖など荷物が増えたこともあり、また交通の便も考えて車での移動が多くなりました。
毎週違う地域を訪ねるのは、一つの楽しみでもあるのですが、その一方で毎週違う道を走る車の運転は、ますます慎重にならざるを得なくなっています。運動能力や反応速度の衰えもあるのですが、経験を積めば積むほど、その危険性を感じることが増えたためでもありましょう。若い時には感じていなかった「恐れ」を経験的に感じるようになってきたように思います。
その意味では、よりいっそう安全運転を心掛ける必要があるといえます。
さて、そのような「恐れ」とは意味が異なるのですが、聖書では「畏れ」について繰り返し述べられています。
例えば、箴言第9章10節には、「主を畏れることは知恵の初め」とあり、14章27節では「主を畏れることは命の源」、そして19章23節では「主を畏れれば命を得る」とあります。コヘレトの言葉第8章12節には「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり…」とあり、またイザヤ書第11章2節には、「主を知り、畏れ敬う霊」とあって、主なる神さまを畏れることによって命と幸いがあることを教えています。
堅信式の際、私たちは主を畏れる霊の賜物を受けます。それは神さまに対して畏まることであり、畏まるとはみ心を敬い尊ぶという姿勢です。
聖ルカの福音書第1章で天使ガブリエルから受胎告知を受けたマリアにそのような「畏れ」、つまり神さまに対して畏むという姿勢がよく表されており、そこに救い主のご降誕が実現したのです。
(『横浜教区報』2026年1月号より)




