+主教 イグナシオ
2025年のクリスマスは、8年ぶりに文字通りのミッドナイト・マス、真夜中の第一聖餐式をおささげしました。
そして、クリスマスを祝う期節である降誕節の間に新たな年を迎え、1日の主イエス命名の日、4日の主日、6日の顕現日と続きました。
教会の信徒数も聖職の数も右肩下がりで減少していく中、財政もまた厳しさを増していますが、そんな時だからこそ、教会は何のためにあるのかを今一度、しっかりと押さえておく必要があると思います。
キリストの体である教会は、ひと言でいえば、キリストの心を世に現わすために存在している、ということになると思います。言い換えますと、キリストの栄光を証しし輝かせるためです。
それは、顕現日の特祷において祈られていることであり、そのことにおいて、教会は世に存在する意味を与えられているといえましょう。
そうであるとしたら、教会がいかに世にあり続けていくかを考える際に、教会の存在そのものが目的となってしまうことは避けねばなりません。
初代教会の頃、数々の迫害や妨害にも拘らず、使徒たちが命がけで宣べ伝えようとしていたのは主イエス・キリストのご復活によって証しされた命の喜びでした。それをいかに人びとに宣べ伝えていくのか、その一点に集約されていたのではないでしょうか。
その意味で今、私たちが守るべきは、突き詰めていうならば、キリストによる罪の贖いのための犠牲の死と復活の記念である聖餐、そしてキリストのご生涯において語られた神のみ言葉です。
そして、そのことを私たちが宣べ伝えていこうとするならば、私たち自身がキリストによる命の喜びに満たされ、そのみ言葉に生きていなければなりません。
そこに、キリストにおいて現された栄光が証しされ輝かされ、キリストの体である教会がこれからも世にあり続けていく意味が与えられていくのだと思うのです。
(『横浜教区報』2026年2月号より)




