聖霊降臨後第24主日(特定27)
司祭 ダビデ 島田 征吾
この主日の福音書は、「律法学者を非難する」と「やもめの献金」と題されている箇所が朗読されます。「律法学者」と「やもめ」の行いが対照的に述べられています。人々から注目され尊敬されるために、着飾り、上席を望み、見せかけの祈りをする、そういう律法学者に気を付けるようイエス様は注意されています。そして、レプトン銅貨2枚を献金したやもめのことを誉められています。
レプトン銅貨は、1デナリオンの128分の1ということですから、レプトン銅貨2枚=1クァドランスは、およそ100円程度になります。それが全生活費であったということですので、貧しい生活であったことが想像できます。しかしこのやもめは、その日の食べ物や自分の生活よりも、先ず神様へと献げたのでした。イエス様は、人々に見せつける行いではなく、自分を献げる行いを誉められたのでした。
この主日の旧約聖書は、この福音書の物語の由来とも思える、旧約の有名な物語が選ばれています。預言者エリヤが、やもめの家族の最後の食料を、これを食べたらもう死ぬしかないという最後の食料を、自分に差し出すように命じた物語です。このやもめは、エリヤを神様からの預言者と信じてすべてを献げました。(列王記上17章)
昔も今も、献金というのは神様への献金に他なりません。神殿の装飾や、献金額の大小は、神様は問われていないようです。神様が注目されているのは、人々が心を込めて神様を礼拝する所として神殿を建てたのか、神様への感謝を心から献げているか、そして、自分を献げているか、ということのようです。
イエス様が注目されたやもめの行いは、今日の食べ物さえ、もっと言えば、自分の命さえ心配することなく、神様を思って自分を献げるというものでした。こうした生き方が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコによる福音書・12章30節)を体現しているのでしょう。
神様は人間の本質を見ておられます。私たちの本心を知っていてくださいます。自分の一番大事なものとは何か、最も大切にすべきものは何か、この問いに本心から応える生活を送りたいのです。
コロナ収束はまだまだのようです。今年のクリスマスはどうなるのか、イースターはどうなるのか、教会は大丈夫なのか、信徒も教役者も皆元気にしているのか、心配もストレスも尽きません。健康面でも経済面でも、世界中が不安と苦痛に覆われています。そのために気付けないでいることがあると思うのですが、今年も、実は神様に感謝することがたくさんあったはずなのです。ついつい、来年は良い年でありますようにと願ってしまうのですが、今を感謝して、そして、救い主の降誕をお迎えすることから始まる新しい教会暦に、希望をもって臨みたいと思います。
(平塚聖マリヤ教会牧師
大磯聖ステパノ礼拝堂管理牧師)
※初出時、元原稿とは異なる誤った個所が数カ所ありました。執筆者ならびに関係の方々、ご覧いただいた皆様にお詫び申し上げ、訂正いたします。ご指摘くださった方々、ありがとうございました。(ホームページ委員会)
福音書 マルコによる福音書 12:38-44
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
特祷 特定27
全能の神よ、何ものもあなたの支配に逆らうことはできません。どうかこの世の変動の中においても、常にみ国の到来とみ心の成就を望み、確かな信仰をもってひたすら主に仕えさせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
旧約聖書 列王記上 17:8-16
また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
詩編 146
1 ハレルヤ‖ わたしの魂よ、主をたたえよ<br />2 命ある限り主をたたえ‖ わたしは生ける限り主をほめ歌う<br />3 この世の支配者たちに頼ってはならない‖ 救う力がない人の子 に頼ってはならない<br />4 人は息絶えて土に帰り‖ その日、すべての企てはむなしくなる<br />5 ヤコブの神を助けとし‖ 主に希望をかける人は幸せ<br />6 神は天と地を造り、海とその中のあらゆるものを形造り‖ とこし えにまことを示された<br />7 虐げられた人のために審きを行い‖ 飢え渇く人にパンを恵み、捕らわれ人を解放される<br />8 主は見えない人の目を開き‖ 卑しめられている人を高め、正しい人を愛される<br />9 主は他国から来ている人を守り‖ 身寄りのない子供とやもめを支 え、悪人の企てを砕かれる<br />10 主はとこしえに治められる‖ シオンの神は世々に、ハレルヤ
使徒書 ヘブライ人への手紙 9:24-28
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。